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○金券、セルロイドのコイン。
○らい予防法細則「懲戒検束の権限」明記。
○大島青松園。自治と権利の目覚め。
治療ではなく労動。それは、病状を悪化させた。食裏は、麦飯に、うすい味噌汁と沢庵だけ。暖房は、真冬も火鉢たけ。
死期が近づくと卵や魚が許される。
大正二年、全生園では、こうした生活にたえかねた患者の殆ど全員が「門破り」を決行し、ムシロ旗を押し立て内務省に向かおうとした。
当時の所長は警察官上がりで高圧的だった。
これを説得し、解決したのは光田健輔区長であり、やがて全生園は光田イズムが貫徹されて行く。
彼は管理強化のため、処罰、監禁等の司法状を与えよと要求する。
大正五年。懲戒検束規定が明文化され療養所の刑務所化が進む。所内に監禁室も作られた。創生期、「らい」対策の重要性を社会に認識させるには、強烈な個性のはたらきが必要である。方法に問題はあったが光田健輔の果たした時代的役割は否定できない。
文字通り白砂青松の大島青松園。
ある朝、レールの断片を吊した鏡が乱打された。
患者たちの決起の合図だった。
折角、患者のために寄贈されたラジオを患者に聞かせない。
患者に物を渡すとき、投げてよこす。電灯が切れても直さない。
危篤の患者の往診をしない。など日頃の不満が重なって、ついにラジオを叩き増したのである。全貝で作業ストに入った。
島をでる女性に託した各新聞社に宛てた趣意書が、新聞にのり、反響を呼んだ。
「世捨島のストライキ」と面白半分の記事だが、患者たちに人間として
の要求があることを伝えた。それは結果的に自治制度を実現させた。

大阪・外島保養院跡。弾圧の嵐のなかで。

○神崎川河口。中洲の埋立地。、
○村田正太
大阪の外局保書院では、いち早く患者の自治制度を醒めていた。院長、村田正太は、患者を人間として対等に扱い、塀の上の管理所を廃止し、鉄条網をはずし、ここを理想郷としようとしていた。昭和の初め、世界恐慌の中で、社会主義思想も、押し寄せていた。人間の自由と権利を求めることはハンセン病者にとっても切実である。日本プロレタリアらい者解放同盟の活動も始まり、特高にマークされていた。
新聞は「レプラ患者に赤の組織確立」とセンセーショナルに報じた。
自治会役員選挙で保守派が勝って、園の平和を乱すものだと急進派の追放を要求した。
ライの上にアカのレッテルをはられて、どうして生きて行けるか。
村田院長は密かにポケットマネーを割いて、その20名を脱出させた。
思想取締を進める全国の所長たちの中で、孤立し、攻撃され、患者の味方だった村田正太は辞職した。
民衆を分裂、対立させ、支配するのは権力者の常套手段である。

 

 

 

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